大阪

新しい年が明けた。

僕は人生で何度目かの、喪中での年明けとなった。

2016年は、いろいろなことがあった。


結婚し、そして、お母さんが死んだ。
仕事を変えた。

大阪へ引っ越して、奥さんとの同居生活が始まった。

結婚式をした。


出会いがあって、別れがあった。


もうこの世に、お母さんはいない。


突然だったかというと、そうではなかった。


去年の夏に、きっとお母さんは、一旦死んだんだと思う。


去年の7月、転勤を命ぜられた次の日、お母さんは本当は死んだんだと思う。
脳に癌が転移したのだ。平均余命は2ヶ月だった。


でも、生き返ってくれた。
元気になってくれて、今の奥さんを紹介して、結婚することが出来た。


結婚式には出られなかったけれど、お母さんに結婚した姿出来た。



お母さんと最期に話した会話は


僕が関西に戻れるかどうかを、5月くらいに聞いてきたときだった。


多分無理だと思う(奥さんとは同居出来ない)って答えたら
笑顔で、「そっか、でも頑張ってれば良いことあるよ。」って言ってくれた。


だから僕はきっと、転職出来たんだと思う。


関西に、僕は戻ってきた。




どれだけの願いが積もった世界だったのだろうと思う。

戻りたくて、帰りたくてたまらなかった関西が
いつの頃からか、僕にとっては遠い場所になっていった。


新潟が好きになってしまった。
とてもとても新潟を愛して、ここに住みたいとすら思った。


でも、関西の奥さんと出会ってしまった。


だから、帰らなくてはいけなかった。



そして、帰ってきた。




僕の生き方が、肯定されるべきなのかはわからない。


だけれども、きっと、いろいろなことがあった果てに今があって


そしてその今は、僕にとってはとても幸せな時間だと思う。







このブログを初めて、初めて僕は思う。


今が幸せで。哀しいことがたくさんあって、辛いことがたくさんあって。
僕の人生は、嫌なこと、辛いことをいかに超えていくかという半生だったけれど


これからは、幸せを離さずに追い求めていく時間が始まった気がする。



20代最期の時間だった。


僕は身勝手で傲慢な幸せを追い求めることにする。

怒涛

いろんなことがあった。


転勤をした。

母親の癌が脳へ転移した。
そして半分、死んでしまったようになった。

新しい場所で勤務したと想ったら、2ヶ月で本社への異動が命ぜられた。

彼女も関西の本社へと異動してしまった。
激務のところだった。


いろいろなことを終えて、母親が一旦元気になり
それで、結婚した。


いろいろなことがありすぎて、昨年は僕の人生の中で最も色濃い時間だったように思う。
そしてきっと、今年も色濃い年となることが予見される。

いろんなことが、きっとこれからも起きていくのだろうと思う。



結婚したはいいが、同居していない。


彼女は関西で仕事を持っている。
俺は関東で仕事をしている。



当初は俺が関西へ異動できるという話だったが、それもなくなった。



最近、人生について考えている。


いろいろな問題を置き去りにした結婚だった。


俺は彼女が、本当に好きだった。
だから結婚した。理由なんていうのはこれしかない。




実のところ、彼女と結婚すれば関西にいけるかもしれないというのは
少しだけ期待した話ではあった。



ただ、それはなんというか、邪道というか。
少し引っかかりはあったものではあった。


そんなことの目的のために結婚したいわけではなかったし
関西へ行きたいという希望はあるが、目的と手段が逆のきがして嫌だった。


かといって、彼女をわざわざ縁もゆかりもない地へ招くのも気が引けた。
夫婦としてどうするかという選択をした時に、どうせならお互い地元の関西で働くほうが良いという理由で
希望はしてみたが、それも難しいようだ。(まだゼロではないが)




本当に、どうすればよいのか悩む。




思うに、彼女を関東へ異動させることは人の都合上割と簡単に出来るようだ。


夫婦二人で共働きで、安定した生活をして生きていくことも
選択として有効の気がする。



ただ同時に思うのだ。


夫婦として、人生を選択していく時に、安定して生きていくために生きているのだろうかと。



彼女にも親がいる。

その時に関西に帰りたいといっても帰れないのだ。





俺は新潟へ行って、本当に人生観が変わるほどに美しい自然を見て
いい人達に恵まれて仕事をさせていただいたと思っている。


だがその裏で、ずっと母がガンに侵されているのを
黙ってみていることしか出来なかった。



その苦難を、時を経て彼女にいつか味合わせることになることが目に見えている選択をすべきなのかというと
それは違うと思うのだ。




楽だけど、安定して、本当に欲しいものを捨てた人生か
リスクは伴うが、あるべき姿として人生を進めていくかなら、俺は男として後者を取るべきだと思う。

運命

私という運命について



彼女と読書の話をしていた。
好きな本の話となり、上記のタイトルの本を進められた。

彼女の内心、彼女の好む本を知りたく、手を取り読み終えた。


読み終えたため、少し感想でも書こうと思う。

感想というよりは感情になるのだが。
この本は僕と彼女の間柄についてもどこか運命染みたものを感じた。

彼女がこの本を読んだのはきっと数年前。
僕が手に取り内容を読んで真っ先に思ったのは、まさしく運命のような内容であった。

本の中に新潟のある地が登場し、そこがまさしく僕が働いている場所であったことや
昔この本の中で語られている、選ばなかった運命など無いという表現は
知ること無くして僕が彼女にある時語った、人生観や物事の捉え方そのものであった。


彼女もこの本の中に新潟が登場することなど、ついの今まで忘れていたようだった。

何にせよ、たまたま彼女と本の話をして、この本の話となり、この本を僕が読んで
この本の内容が記憶からやや色あせている彼女が今再びこの本を手にとっているという時間は
僕達二人にとって、小さくない意味合いを持つものなのだと思う。


奇しくも運命という表現がよく似合う、1つの出逢いと表現してもよい本だった。


たぶんこの本を僕は一生忘れないだろうし、彼女とどういう結末を辿ろうと
この本とこのタイミングで出会ってしまったことを忘れることもないのだろう。



たぶんどうやっても僕は彼女と結婚するのだと思う。

そしてきっと僕は関西に帰って、彼女との生活を始めるのだろう。
子供もできるのだろう。そして、きっと僕はまた違った人生を歩み始めるのだと思う。

そう遠くない未来に、僕の母親が死ぬのだろう。父親も死ぬのだろう。

そんな世界の中で、きっと悲しい思いをするのだと思う。


彼女と同じ職場で働いて、情けない姿を晒したくないなぁと苦心するのだろう。
でも家に帰ってホッとしたりするんだろうと思う。


そんな溢れて目に見えた運命に身を委ねようと思ってしまった。

今までいろんな嫌なことがあった。
そんな嫌なことを経て経験したことが報われない人たちがきっと大勢いるのだと思う。
不幸で悲しくて悔しい時間を過ごして、そんな経験をした後で、それが、自分を慰めるものにしかならない人たちがきっと大勢いるんだと思う。


でもそんな中で、僕はそんな過去の嫌な思い出や嫌な時間を全て取り返せるような相手と出会えて
そんな嫌な時間があったからこそ彼女と出会えたのだ、というような経験をした。



物語としては、いわばハッピーエンドの目前にいるのだと思える。

起承転を経て、ちゃんと結が来てくれたというような感情を抱いている。

自分の人生が報われることなど無いのだと思っていた。
物語じみた人生でも、ハッピーエンドなんて与えられないのが自分の人生だと思っていた。


だけれども、今まぎれもなく幸せな未来を予見している。
こんな経験は人生で初めてで、こんな感情も人生で初めてなのだ。


そしてこの初めての感情を大事にしたいと思っている。


この先どうなるのかなんてわからない。
でも今は、数年ぶり、下手をすれば10年以上ぶりに、前向きな感情というものを取り戻している。


ようやく長い長い冬が終わった。

今はただこの追い風とこの流れに身を任せたいと思っている。

輪廻

彼女と日々メールのやり取りをしている。

そんなやりとりの最中、彼女の中で僕がある程度の比重を占めてきていることを感じる。


そう遠くない未来、彼女と結婚することになる気がする。


今までの人生が全て反転していくのを感じる。

ここ数年とても嫌なことが多かった。
そんな嫌なことが全て巻き込まれて、今に吸収されていくのを感じる。
正直舞い上がっているといえば舞い上がっているが
今は今として受け止めている。

まあありのままの状態がこういう状態なのだろうと。




世界でここにしか書けない感情があるので書いてみるが
彼女のことを思って幸せを感じれば感じるほど
前の彼女のことを考えてしまう。


彼女はたくさんの楔を打ち込んでいった。
きっと僕がしあわせになろうと不幸になろうと、彼女の人生には何の影響も及ぼすことはない。



どうして前の彼女には、する気にもなれなかったことや、言う気にもなれなかった言葉が
今の彼女にあっさり言えてしまうのだろうと考えてしまう。


前の彼女に対してあることは、きっと罪悪感以上でも以下でもないのだろう。
後悔や、恋愛感情というものは、ほんの僅かすらも無い。

ただあるのは、罪悪感という身勝手な感情のみだ。



今の彼女にある感情も、純粋な恋愛感情でないことも思っている。
愛おしいし、愛らしい。
でもそこには複雑な感情もある。
彼女と結婚すれば地元に返してもらえることや、また同じ職場結婚というのは仕事をする上で面倒だなぁという感情もある。
部屋の片付けが苦手だったり、寂しがりという面もあったりする。


そういった感情が、今は彼女が好きだという感情で上書きされている。







罪悪感というのはタチが悪い。
こういうものは、多分一生消えない。

消えることはないんだろう。だから一生忘れることはないんだろうと思う。



整理しておかなければいけないのは、前の彼女に対してある何かを今に持ち込んではいけないということだ。
前の彼女を幸せにできなかった、だから今の彼女を幸せにしようとか
そういう感情を持ってはならない。

それは結局、過去の慰めに今を利用しているだけになる。

それはきっと、誠意のない、同じことの繰り返しを招くだけの気がする。



そしてまた、過去に対してできることも、もはやないと割り切ることしかない。
幸せにいてほしいと願っても仕方がないし、悔やんでも仕方がない。

してやれることはもうないと思って、離れた。
だからできることはもう、無い。

あるとすれば、忘れることか、忘れないことかの二択しかない。
そして今のところ、忘れないことを選択している。

不実

去年、3人でチームを組んで仕事をしていた。
その時のことを書こうと思う。


俺が一番下っ端だった。
中心となるのは、40歳位の先輩で、真ん中に30代の先輩がいて、俺がいた。

俺はある種、OJTのような空気感すら漂う中で、少し自慢だが、俺の年でやる規模ではない仕事をさせてもらっていた。

今も俺の中で仕事に関する自信をつけることとなった時間だった。

もちろん責任感も大きいし、うちの支店の中核を担うような仕事をしていた。
そして、うまくやれていた。
これをやりきったから、今も幹部達から、僕はある程度の信頼を得られている。

仕事の内容は捨て置いて、先輩たちの人柄と、出来事について書こうと思う。


30代の先輩は、結婚しているが、お子さんがいない。
子供作ったほうがいいよ、という助言を頂いているということから察するに、きっと子宝に恵まれなかったのだろうと思う。


器用なタイプではないが、面倒見がよく、良いことを褒めてくれ、きちんと注意してくれる人だった。
ヘタすれば俺のほうが器用で、仕事とかでも俺のほうが若干助けたりする局面もあったりした。


でも、俺はこの人と一緒に仕事が出来て、今も本当に大切な経験をさせていただいたと本当に思っている。


40代のリーダーは、とても格好良くてスマートな人だった。
無愛想な俺にも仕事を教えてくれて、笑顔はあまりないが、いつでも優しい人だった。

きっと生涯この人を慕うことだろうと思う。


そんな先輩に、先日不幸があった。
お子さんが亡くなられた。


まだ若いお子さんだった。事故だった。


こういう出来事があるたびに思うのは
「何故この人なのだろうか」ということなのだ。

亡くなられたのはお子さん本人だが、僕はやはり先輩を基準に考えてしまう。


僕は因果応報という言葉が好きではない。

報いられるるべく幸福と、与えられるべく不幸というものがあるべきであるという思想を崩せずにいる。
それは世の中は平等であるべきであるという考え方に基づく。



頑張った人は報われ、頑張らなかった、悪いことをした人間には当然のように不幸が訪れるべきだと思う。


先輩のプライベートはよく知らない。
もしかしたら浮気していたのかもしれないし、もしかしたらとてもずるいことを裏でしていたのかもしれない。
だからといって、お子さんを亡くさなければならない程の何を、先輩が働いたとは思えない。


きっと先輩は、これからの人生の色が、どうしようもなく変わっていくと思う。

亡くしたお子さんを忘れることは無いのだと思う。当たり前の話だ。


他人が幸せとか不幸とか、そういうものは割りと、その人なりに判別されていくものなので
僕個人が、先輩を見て幸せとか不幸とか決めるべきではない。


だが諸所の事情や感情を捨て置いても、先輩の味わった出来事というものは、きっと打ちどころの無き不幸であることは
考えるまでもないものだと思う。



今でも本当に思う。何故先輩だったのかと思う。
もっと悲しい思いをすべき人間などいくらでもいる、と。
それでもその、訪れるべきではない何かというものが、先輩のもとにやってきてしまったことは、理解し辛く、受け入れがたい。


そしてそれでいて、それでも毎日仕事をしている先輩の姿を見ると、言いようのない、本当に形容しがたい感情を抱いてしまう。

先輩の苦痛の少しでも共有できるのなら、少しでも俺のもとにくれば良いのにと思える。

葬式で見た息子さんの姿を、今も忘れられずにいる。
エンバーミングというのだろうか。

修飾せずに直接的な言葉を並べると、蝋人形のような顔であった。
その顔が、今も忘れられない。


そんな姿を見て、学べるものを探すが、そんなものは見当たらない。
あるのはただ、なんとも言えない姿でしかない。



何で先輩だったのかっていうことを、きっと今後も考え続けることなんだろうと思う。


俺がそんな経験を経て何かを思い抱いたとしても、先輩の不幸を和らげることに、ほんの僅かですらも貢献できることはないのだろう。

先輩たちと仕事が出来て本当に良かったと思う。
だからこそ、虚しい感情というものがどうしようもなく、拭えずにいるのだ。

世界は回り続ける

そんな日記を書いた矢先に、彼女が出来た。


自分で誰かを好きになり、告白をして付き合うっていう経験をした。


毎日がとても楽しい。
寝ても覚めても、彼女の事ばかりを考えてしまう。
彼女が幸せになる姿を、考えてしまう。


なるほど、これが恋愛というものなのかと思うと、愛や恋を馬鹿にしていた人生が
まるで嘘だったように感じる。

人が恋愛する理由がわかる。


もっと早くこういう経験をしていれば、自分の人生も少しは変わったのだろうと思えてくる。


恋愛っていうのは、楽しい。


失いたくない不安を抱えている。

この恋がどういう終わり方になるのかはわからない。
でも、人生で最期の恋になっても良いって思ってる。



どうしたらいいのか悩んでいる。


去年彼女と出会った時、僕は病んでいたわけではないけれども
結婚に失敗した矢先だったため
どうしても異性を好きになる気がしなかった。


気がつけば彼女が我が家にいる絵が自然と浮かび上がった。
彼女はきっと、家族が好きで。
相手の家族も大切にしてくれるだろうっていう絵が、見えた。


僕と違い、彼女は笑顔が素敵だった。
僕は笑うのが苦手で、彼女は笑うのが得意だった。
僕と違って、感情が豊かだった。


そんな彼女に、きっと気づくと、恋をしていた。

そんな恋が報われて、僕は今彼女と付き合っている。
とてもとても離れた距離で、彼女に想いを寄せている。


どうなるのかはわからない。
だけれども、今思うことは、彼女の幸せに寄り添うことが出来れば、それはきっと自分の幸せだと思った。
彼女は嫌がるだろうけれど、僕は自分の分まで笑ってくれる人が良い。
彼女の不幸は僕がかわりに背負うから、僕の分まで笑ってくれるような人が良い。




いろんなことがあった。
普通の人は経験しないようなことを、きっと僕はたくさん経験してきた。
楽しい思い出は、きっと人より少ない。
苦虫を噛み潰すような思いを、きっとたくさん続けてきた。



でも何となく思うのだ。
この恋は、裏目に出る僕の人生の中でも、きっと何故か、うまくいくって思うのだ。


そんな世界を思い描くと、僕は幸せでならない。

自分の人生は報われないものだって思っていた。
神様なんていないか、いてもさぞかし性格が悪いのか、僕が嫌いなんだろうと思っていた。


長い長い人生の中で、前向きに明るいことを思い描く時間を大事にしていきたい。
彼女と出会えたことを思うと、今までの苦痛のどれか1つが欠けてもダメだったのだと思う。


彼女と出会って、今を過ごすためだけに今までの全てがあったのではないのかとすら思う。


そんな自分の重い感情は、きっと彼女に晒していくのに人生1つかかってしまうだろうというくらいに
とてもとても深い感情を抱いている。


そんな感情に整理をつけていれば、気付いたら老人になっているのではないかとすら思う。


自分が理想としていた何かが目の前に現れるっていうのが、まさに今なんだろうと思う。

たぶん俺は、彼女をもっと好きになって、きっと結婚を申し込むんだと思う。
そう遠くない未来に、今までの人生の全てが精算されていくような気がしていく。

恋次

あんな日記を書いた手前あれなのだが、僕は恋というのがよくわかっていない。
男女の恋愛という物も、実はよくわからない。


自分の女性遍歴のようなものを振り返ってみたところ、やはりわかっていないことがわかった。


小学校の頃、好きだった子がいた。
クラスで一番活発な子だった。
まあ、それだけだった。クラスでちょっとやんちゃで運動の出来る子と好き合っていた。
僕はまぁ、なんだろ。見てた。

中1でも中2でも中3でも
なんというか、クラスで一番元気の良さそうな感じの子が好きだった。


高校でもまぁ、そうだった気がしたが、正直その年まで
好きって言う感情は、非常に曖昧というか、「かわいいなぁ」の延長だった。


高校を辞めて、前述の日記の相手と出会った。

それが恋だったのかはよくわからない。

人生における異性関係というものは彼女が初であり
始めて男としての何かを異性に対して行っていた気がする。


それが俺の男女交際というものの全てであった。


去年そんな彼女と別れ、恋愛など懲り懲りといった感じだった。

そんな矢先、仕事で知り合った10代の女性数人からアプローチがきた。
はっきりいってよくわからなかった。


よくわからなかったが、まぁモテているという状態になった気がした。
ただ結果は散々というか、別に誰かと付き合うとかそういうことには全くならなかった。


はっきりいうと、惜しいことをしたという感情は残る。


結局、自分と似たような年だったりする人に恋心を寄せ
付き合おうよとか、初デートどきどきとかそういう経験、僕には無い。



正直、恋ってものがよくわかっていない。

どうすればいいのかもわからない。
世間の男のように、かっこいいアプローチとか、そういうのがわからない。
また男女関係における、気になるとか、キープとか、乗り換えるとかそういうのがわからないし、煩わしい。


下世話な表現をすると性欲はある。
いろんな女性と性行為をしたいという欲求も当然ある。

だがきっと、それ以上に、面倒くさいのだと思う。
失敗すれば自分の自己評価が下がるということその一点が、何よりも面倒くさいのだろう。

好きだと思った異性にアプローチをして失敗して傷つくより
部屋で一人でパソコンをしている方がいくら楽なことか。




でももう、いい加減疲れたのだ。
恋愛というものに、僕はあまり意欲を持てなかった。
これからも持つことは無いだろう。

自分が好きで、大切にしたいなぁと思う人と過ごせればそれで良い。
いろんなところにいって、ぼーっとして遊んでいたい。
それだけでいい。あとは仕事に打ち込みたい。


それを人生にして、生きて行きたい。