不実

去年、3人でチームを組んで仕事をしていた。
その時のことを書こうと思う。


俺が一番下っ端だった。
中心となるのは、40歳位の先輩で、真ん中に30代の先輩がいて、俺がいた。

俺はある種、OJTのような空気感すら漂う中で、少し自慢だが、俺の年でやる規模ではない仕事をさせてもらっていた。

今も俺の中で仕事に関する自信をつけることとなった時間だった。

もちろん責任感も大きいし、うちの支店の中核を担うような仕事をしていた。
そして、うまくやれていた。
これをやりきったから、今も幹部達から、僕はある程度の信頼を得られている。

仕事の内容は捨て置いて、先輩たちの人柄と、出来事について書こうと思う。


30代の先輩は、結婚しているが、お子さんがいない。
子供作ったほうがいいよ、という助言を頂いているということから察するに、きっと子宝に恵まれなかったのだろうと思う。


器用なタイプではないが、面倒見がよく、良いことを褒めてくれ、きちんと注意してくれる人だった。
ヘタすれば俺のほうが器用で、仕事とかでも俺のほうが若干助けたりする局面もあったりした。


でも、俺はこの人と一緒に仕事が出来て、今も本当に大切な経験をさせていただいたと本当に思っている。


40代のリーダーは、とても格好良くてスマートな人だった。
無愛想な俺にも仕事を教えてくれて、笑顔はあまりないが、いつでも優しい人だった。

きっと生涯この人を慕うことだろうと思う。


そんな先輩に、先日不幸があった。
お子さんが亡くなられた。


まだ若いお子さんだった。事故だった。


こういう出来事があるたびに思うのは
「何故この人なのだろうか」ということなのだ。

亡くなられたのはお子さん本人だが、僕はやはり先輩を基準に考えてしまう。


僕は因果応報という言葉が好きではない。

報いられるるべく幸福と、与えられるべく不幸というものがあるべきであるという思想を崩せずにいる。
それは世の中は平等であるべきであるという考え方に基づく。



頑張った人は報われ、頑張らなかった、悪いことをした人間には当然のように不幸が訪れるべきだと思う。


先輩のプライベートはよく知らない。
もしかしたら浮気していたのかもしれないし、もしかしたらとてもずるいことを裏でしていたのかもしれない。
だからといって、お子さんを亡くさなければならない程の何を、先輩が働いたとは思えない。


きっと先輩は、これからの人生の色が、どうしようもなく変わっていくと思う。

亡くしたお子さんを忘れることは無いのだと思う。当たり前の話だ。


他人が幸せとか不幸とか、そういうものは割りと、その人なりに判別されていくものなので
僕個人が、先輩を見て幸せとか不幸とか決めるべきではない。


だが諸所の事情や感情を捨て置いても、先輩の味わった出来事というものは、きっと打ちどころの無き不幸であることは
考えるまでもないものだと思う。



今でも本当に思う。何故先輩だったのかと思う。
もっと悲しい思いをすべき人間などいくらでもいる、と。
それでもその、訪れるべきではない何かというものが、先輩のもとにやってきてしまったことは、理解し辛く、受け入れがたい。


そしてそれでいて、それでも毎日仕事をしている先輩の姿を見ると、言いようのない、本当に形容しがたい感情を抱いてしまう。

先輩の苦痛の少しでも共有できるのなら、少しでも俺のもとにくれば良いのにと思える。

葬式で見た息子さんの姿を、今も忘れられずにいる。
エンバーミングというのだろうか。

修飾せずに直接的な言葉を並べると、蝋人形のような顔であった。
その顔が、今も忘れられない。


そんな姿を見て、学べるものを探すが、そんなものは見当たらない。
あるのはただ、なんとも言えない姿でしかない。



何で先輩だったのかっていうことを、きっと今後も考え続けることなんだろうと思う。


俺がそんな経験を経て何かを思い抱いたとしても、先輩の不幸を和らげることに、ほんの僅かですらも貢献できることはないのだろう。

先輩たちと仕事が出来て本当に良かったと思う。
だからこそ、虚しい感情というものがどうしようもなく、拭えずにいるのだ。