極楽

昨日なんとなーく家族と食事をしていて
こう、極楽とかほんとにあるんかねーみたいな話をしていた。


まあほんとにこればっかりは個人の宗教観だし、人生観?考え方?それに委ねられるものだから、正しいものなんてないとしかいえんのだけど。

親父はやはり極楽というものを信仰しているようだし。
もしかしたらそれは、そういうものを信じて生きたほうが人生は豊かになるとか、そういうのに裏打ちされた考えなのかもしれないし。
ちなみに誤解のないように言うとうちは普通の仏教で、妙な新興宗教とかは無いです。


僕やっぱり、小さい頃からおばあちゃんと仏壇の前にいたりしていたので
どうにもこう、この手の話はどう解釈したらいいのかわからないんですよね。

「極楽があるかないか、真実を言い当てたら100万円。極楽浄土はあると思いますか!?」なんて質問が来たら
問答無用で「ありませーーん!!」っていうだろう。僕は。


かといってそれを否定することが=豊かであるかというとまた別ですよね。
一般的、学術的、宗教学的、そんなものはわかりません。

ですが、生きていて辛い思いをすればするほど、最終的には良心に裏打ちされた宗教にすがるしか無いような気がしてきます。
だから宗教はおぞましい。おぞましいし、凄い。


昔塚田が言っていたので印象に残っているのは
「もしか宗教が無意味で必要がないと思うのなら、親の死体をゴミの日に出してやればいい」
なんてことを言ってました。

無論、何年も前の彼の言葉だし、文脈も無視してこうやって書くと語弊があるのだろうけど。
何ともこの言葉に「ははーん、なるほどなー」とか思っちゃったのも事実で。


僕は学校にいくのが辛かったとき、ずっとお墓に逃げ込んでいました。
ご先祖さまのいるお墓の前でぼーっとしているのが、何とも一つの救いにはなっていました。

身も蓋もないことを言ってしまうと
目の前にあるのはただの石と、その中に語ることのない骨があるだけなのです。


それでいて、僕はひーじいちゃんばあちゃんは見たこともないし。
じいちゃんだって、実のところ記憶に残っているかというと
それはとてもわずかなもの。性格も声も、うまく思い出せはしないしさ。

それでもどこか、お墓の前に行くことが僕の一つの逃げ込める場所であったことも事実で。


だから宗教が人にいかなる影響を与えるか、なんていうのはかなり話のレベルとして、とても高い位置にあるものだと思うのですね。
もっと素朴に、身近なレベルで話すのならば、たぶん小さい頃に教わった
「悪いことをすると罰が下る」だとか「嘘をつくと閻魔様に下を抜かれる」なんていう教えは
決して生きる上でマイナスにはなっていないのです。
それが嘘であることなんて生きていれば気がついてしまうし。
かといって、本当にそれが教えとして生きているのなら、嘘だからなんてシンプルな理由で否定もできなくなりますし。
菊と刀のような話ですけど、恥だけをもっていても仕方ないですもんね。


今日が、僕の隣の部屋におばあちゃんの骨がある最期の日です。
とてもさみしい。骨だけでも、ずっと、永遠にずーっといて欲しい。

この何ヶ月も、おばあちゃんの部屋で骨を前にして、ろうそくに火をつけて線香をあげることで
僕がどれほど救われていたことか。


出来ることなら、就活に一段落付いた状態で看病したかった。
内定証書を見せたかった。働いてる姿も見せたかった。
お嫁さんも見せてあげたかったし、孫も見せてあげたかった。
何もかもが、叶わなかった。僕がどれだけ努力をしても、有限な時間という制約の前には無力すぎた。
もっというのならば、高校を辞めなければ、現役で落ちなければ、僕は働いている姿は見せることが出来た。
でも1年遅れていなければ、たぶん僕はおばあちゃんの死期に、そばにいることは出来なかったし。



僕はこれをたぶん一生抱えていくし、振り返ると少し悲しくなってしまうのだけれど。
それでも、たぶんずっとおばあちゃんの影がある限り、究極的に僕が勝手に定義した良心に背くことは、たぶん出来ないのです。
それは人生において縛りプレーのようなモノなのかもしれないけれど
それがマイナスには、たぶんならない。


辛くてぐるじい。
何をしたらいいんだろうなー。漠然と立派になるしか無いのかなー。


悩むにゃー。