其三

さあ、いよいよ本格的にぬめぬめしてきたこのblogですが
もうあと一ヶ月で僕の学生生活も終りになるというところですね。



今日は大検のことを書こうと思います。
大検って、僕より年上の世代は結構名前とかは聞いたことあるんじゃないだろうか。
っていうかまあ、僕が散々中卒ネタを言ってるので、こんなblog読んでる人は嫌でもわかるか。

大検は今、高卒認定試験と名を改めています。名を改めるってか、違いもあって。
大検と高卒認定試験の違いを簡単に説明すると、大きく二つ。

1.高校に在学しながらでも受けることが可能になった。(大検は全日制高校にいる場合は受験不可能だった)
2.取得すると、高卒と同程度の効果を持つとされる。(大検は大学を受ける権利以上の意味を持たなかった)


科目の変動とかもまああったっちゃあったんだけどさ。そんなのは微々たるもので。
僕が大検を受けるにあたって問題となったのは、1.のルール。これが大問題となった。


ちょうど大検から高卒認定試験へと名称が変わったのは、僕が本来高校三年になる年であった。

僕は高校二年に進級出来なかったため、本来高校二年になる年に大検を受けたいと思ってはいたのだが。
中退することも親が許してはくれず、高校に籍だけを置きながら図書館通学・・・なんて面倒な状況に置かれていたのは前に書いたと思う。


ようするに、僕は不登校の二度目の高校一年の年、大検を受けたくても受けることが出来ない状態にあったのだ。


当時の僕がとった行動は、とりあえず出願する、ということ。
5月くらいだったかな?願書提出は。
とりあえず願書を提出するだけ提出して、試験日までに高校を辞めてやれば受ける権利が貰える、という計算式だった。

今でも憶えている。親に内緒で京都府庁舎へと大検の願書を取りに行った日を。
ごめん嘘。あんまり覚えてないw たぶん府庁だったと思うんだけどw?市役所だったかな?


何かよくわからず、ふらふらと「あのー、大検の願書どこでもらえるんですかねー」なんて
そこらの部署で聞いた気がします。



あの時願書を手にとって、どんなに救われたことか。
確かに普通に学校に行って普通に卒業する、なんていうのが大半の当たり前なルートなのだが。
自分のように逸脱した人間にもちゃんとルートは残されているもんだ、なんて思った。行政は偉大だ、とか。
そして、8000円くらいだったかな?当時の僕からすると安くはない金額を、ただ受けるという目を残すためだけに支払って。




試験結果はというとですね。まあ、受験出来ませんでした。
願書が送られてくるあたりの時に、親にちゃんと話して、中退させてくれない?なんて。
親はやっぱり、高校を辞めることを許してはくれませんでした。




高校を辞めるか否か、なんていうと、凄く悲惨で、悲しい問題のように聞こえると思います。
たしかにそれは、間違ってはいない。

でも図書館に一人で通いながら、こうやって親の目から隠れて動いたりすることこそ、なんていうんでしょう。
初めて僕が自分で考えて行動することを始めた契機である、とも思えるのです。
結局受けることのなかったあの願書一枚から、僕の戦いが始まった。
もう二度と平凡な世界には戻れんし、戻るつもりはないぞ、なんていうつもりで出願しました。
それは紛れもなく親との戦いだったし、今も僕の視野がとてつもなく狭く、一つの目標を見るとそれ以外の全てが目に入らなくなる元凶です。




僕はこの頃から、自分で考えてだした結論こそ至高!!それこそが人生だ!!なんていう価値観を強く持ちました。
最終的に大学に戻ってやればそれで良い、そのためならどんな手段だろうと構わん!!という。
不安しかなかったですよ、そりゃ不安が99%です。
でもどこか、レールの一切無い、今後の全てを自分で作り上げることへのワクワク感のようなものも持っていました。
もう俺を縛る鎖などどこにもないんじゃ!!というガムシャラ感です。
もちろんこの頃は、みえていませんでした。
今まで私立の中学・高校に投じてもらった学費や、そこにある親の思いや。
僕が大学に行きたいと思ったとき、其の大学の学費。いやまあ金の話ばっかであれだけど。
子どもが学校を留年して辞めたいとか言い出してる親の心境とか
半分自分が育てたような孫が、不登校してるのを見てるばあちゃんの気持ちとか。
その頃はそんな余裕なんてありませんでした。

何故かうまくいかない自分の人生に対しての不満ばかりが募っていて
とても周囲の気持ちなんて考える余裕はありませんでした。
別に今このblogで謝罪しても何もならんので謝罪なんてしないけどな!!



ちなみにこういう風に生きていると、何故かどこかからか、高校をやめたいとか悩んでいる人から話が飛んできたりします。
でも決まって、やっぱり勧められないんですよね。
学校をやめようか悩んでいるレベルの人間に力なんて無い、というのが僕の結論です。
力あるものはそもそも辞めないし、辞めるにしても辞めることに悩まないし。
悩んでる時点で、先なんて無いのです。



もちろん大検云々の絡みでいろいろと思うことや、プラスになる経験も多々ありました。
この経験があったから、たぶん僕は今いる場所にいることが出来るんだけど
それにしたって、する必要のない苦労をする必要はないし、かける必要のない心配を周囲にかける必要も無い、なんて思います。



ライオンは子を谷底に突き落とすとかいいますけど(ホントか嘘かしらんけど)
谷底に突き落として全員死んじゃうならライオンは今頃絶滅してるじゃないですか。
突き落としても生きる残るやつがいるからライオンが生きてるわけでさ。

だからアレですよ。突き落として全員死ぬってわかってたら、突き落とさないでしょ?って話です。
高校を辞めるなんて、落ちたら死ぬヤツが平地が嫌で谷底に落ちてみるみたいなものです。
僕みたいに運良く生き残る人間の方がたぶん少数派で、大体死にます。谷底に落ちないほうがいい人生を歩めます。




こんな喩え話をした手前アレなんだけど、結局ぼくだって谷底に落ちてはいないんだと思います。
僕には無数のセーフティネットがあったとも思います。
「俺は飛べる!!」とか言いながら谷底に特攻んでいく僕を、たぶん親はずっと糸で釣り上げてましたし
その途中にも無数のとっ掛かりがありました(大検というシステムがその典型的な例です)。

谷底に落ちてる途中で、「あ、これは死ぬ」と思って引き返したのが僕だと思います。
となったら、谷底に落ちようとしてる人に「それも人生だ!」なんて勧めることはやっぱり出来ないですよね。




大検が高卒認定試験へとシステムを変えてきたのは、なんというか。
いい面も悪い面もあります。
僕の一方的な考え方でいうと、大検を受けるためには一つの覚悟が必要だったわけです。
全日制高校に通いながら受験することが出来ないというのが、微弱といえど一つの中退を防ぐ抑止力として機能していた気がします。
でもそれが無くなったこと、つまりは高卒認定試験に合格したら高校行く必要ねーや→中退なんてことが可能になるわけです。

これはいいとも悪いとも言えないですよね。
極端なことをいうと、いじめられっ子が学校にいく必要が無くなる道を与えることは間違いではないと思うので
そういう意味で、全日制にいながら受けられるようにするのは改善といえますし。


悩んでいる人間の背中を押してしまう側面から見ると改悪といえますし。

文部科学省が、大した難易度のない試験によって、高校卒業の3年間の時間と労力と同程度の地位を承認していることも
どこか納得がいかない気もします。



私見だと、大学を受ける権利、にとどめておいた方がいいんじゃないのかな、なんて思いますにゃー。